広島城下の外港として、水産物の集散地、かき養殖の町
草津村は、古江村を村域に含んでおり、近隣の己斐村、山田村、井口村と同様厳島神社の荘園でありました。
戦国時代には、当初厳島神社主家配下の羽仁氏が草津城を拠点にこの地を支配し、大内氏、陶氏の勢力圏に入った1554年以降は、毛利氏の支配下になり、水軍の将である児玉氏が毛利の防長移封まで、三代に渡って草津を統治しています。
入江や平潟に飛んだ地形は、毛利水軍の湊となるとともに、米、塩の荷揚げ、厳島神社の参拝や、瀬戸の島々への渡し場として賑わい、村に町家が形成されていった。藩政期、草津は広島城下の外港としての役割を果たし、濱田藩の屋敷が設置されていました。また街道筋に位置する草津城には、城下町の西端を示す大門が設けられ、広島及びその周辺の水産物の集散地であり、カキの養殖が盛んになると、仁保島、江波と並部特産地となりました。
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