マンハッタン計画
(広島市への原子爆弾投下計画)
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、
アメリカ軍が日本の広島市に投下した原子爆弾は予算20億ドルをかけ
実践で使われた世界最初の核兵器です。この一発の核兵器により、
当時の広島市の人口約40万人の内15万人が一瞬に命を失った。
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8月2日、グアム島の第20航空司令部から、テニアン島の第509混成部隊に極秘野戦命令が通達された。1、攻撃日 8月6日 2、攻撃目標 広島市中心部と工業地域 3、予備第2目標 小倉造兵廟及び同市中心部 4、予備第3目標長崎市中心部 5、特別指令 目視投下に限ること。
8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は、最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。
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8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天気は良好」とテニアン島に報告している、同時刻、テニアン島では、ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイの搭乗員に「今夜のわれわれの作戦は歴史的なもの」だと出撃命令を伝えた。
8月6日0時37分、先ず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎です。0時51分には予備機のトップシークレット号が硫黄島へむかった。
続いて1時27分、MK-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイが滑走路に入り、1時49分にA滑走路の端から離陸した。その離陸後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機グレートアーチェスト号が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機ネセサリーイーブル号が飛び立った。すなわちこの日6機のB-29が原爆投下作戦に参加し内4機が広島上空に向かった。テニアン島から広島までは7時間の飛行で到達する。
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6時30分、四国上空兵器担当兼指揮官パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐ジェイブソン陸軍中尉、射撃手フィアビー陸軍少佐らが弾薬庫に入りリトルボーイの起爆装置から、安全ピンを抜き点火プラグを装填した。作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」を報告する。機長は機内放送で「諸君、われわが運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、正体を始めて搭乗員全員に明らかにした。
7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29のストレートフラッシュが、ヒロシマ上空に到達しテニアン島の第313航空団に、気象の報告「ヒロシマ快晴、視界良好」と送信、この通信を四国上空のエノラ・ゲイが傍受し投下目標が広島に決定した。この観測機は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に空襲警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過したため7時31分には警報も解除されている。
8時過ぎ、B-29 3機を日本側によってキャッチ、中国軍管区司令部は空襲警報の発令を決定したが、各機関への警報の伝達は間に合わず、警報のない時間帯の8時9分には、広島市の上空で市街地の目視できる地点に到達していた。高度は9600m先ず原爆などによる風圧などの観測用のラジオソデンを吊るした3個の落下傘を投下する。8時12分エノラ・ゲイが攻撃始点に到達したことを確認した航法士カーク陸軍大尉は機を自動操縦に切り替える、爆撃手フィアビー陸軍少佐は落下傘によるデーター、高度・対地速度・風向・気温・湿度を照準機に入力、投下目標を広島市中央を流れる太田川の分岐する地点にかかる相生橋のT字にあわせた
8時15分17秒爆発とセットされた核爆弾リトルボーイが自動投下された。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避けるために進路を急展開し、再び手動操縦に切り替え激しい急降下で高度を下げ3000mの地点で進路を東に、B-29が安全圏広島市外中心地より13Kmの地点でリトルボーイは放物線を描きながら、目標を南に100mはずれた島病院上空600mの地点で炸裂した。撮影機ネセサリーイーブルは世界初の広島市への原子爆弾投下後の惨状を撮影し、14時58分テニアン北飛行場に帰還した。12人の搭乗員は出迎えた数百人の将兵に祝福され、タラップを降り立った機長ティベッツの胸には栄誉十字星が輝いていた。
ルーズベルト大統領が20億ドルの予算をかけて計画したマンハッタン計画の実行は、トルーマンにより、8月6日235ウラン原子爆弾リトルボーイを広島に、8月9日239プルトニューム原子爆弾ファットマンを長崎に投下することを極秘閣議によって決定していました。この事実がある限り広島投下に続いて、追い討ちを掛けるように長崎市に投下されたことは「しかたないこと」では済まされません。アメリカはガム島においてしかるべき綿密なる訓練の元に、最終兵器となるマンハッタン計画、核兵器爆弾の実験を行い、これに成功したのです。
8月6日、夕刻のラジオ放送で、「広島市に新型爆弾が投下され、一瞬にして広島市街地を破壊し、多数の死傷者を出した」と全国に放送された。この瞬間を目にした広島市民はこれを「ピカドン」とよんだ。
いち早く被災地広島に入った、ノーベル賞受賞の物理学者湯川英樹博士によって、核兵器による原子爆弾であることを明らかにし、中性子・放射能の被害が広がることを警告した。いまも、広島日赤病院の原爆患者病棟において、放射能被爆した多くのお年寄りが苦しんでいることを忘れてはならない。広島市民は、世界にいずこの国にも核兵器が存在することを許すことは出来ない。
第2次世界大戦で誰もが疑わない勝利者であったアメリカが、完全に敗北し降伏は時の問題であった日本の空になぜに原爆を投下する必要があったのか、マンハッタン計画の実験を成功させるべき単なる行動としたなら、人間の尊重という自由平等の基本的な精神を持つアメリカにとっては、きわめて冷静を欠いた判断である。ソビエトの参戦を控え日本に対する勝利者として世界により大きな発言力を持ちたいという政治的考慮からであるなら、人間の偉大なる科学の進歩の業績が招いたこの悲惨な結果を、正当化することは出来ない。
広島市平和公園には、世界中の外国人が訪れています。アメリカ人も、アフリカ人も、ヨーロッパの人も、インド人も、中国人も彼達は観光に来ているのだろうか、それとも世界の平和を祈ってるなだろうか、湯川英樹博士が広島に残した言葉「まがつびよ ふたたびここに 来るなかれ 平和を祈る ひとのみぞ ここは」。
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