新日山 安国寺 恵瓊ゆかりの寺 |
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江戸時代の新山雑記では、不動院の開基は僧空窓であると伝えられていますが、金堂内に安置されている本尊、薬師如来像が定朝様式であることから不動院は平安時代に創建されていたものと推測されます。
現在、安国寺 不動院と呼ばれる由縁は南北朝の戦乱で死んだ武士達の霊を慰める為に、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であった事に由来します。以降安芸の国安国寺として、又安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
戦国時代の大永年間(1521〜27年)武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちました。が、戦火で荒れ果てた不動院を復興したのが、秀吉公の直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。秀吉公は恵瓊の住持する」安国寺に寺領として破格の規模である一万千五百石を与えました。恵瓊はこの間安国寺の復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔領十二院等を復興整備し隆盛を極めましたが、関が原の決戦で西軍に組した恵瓊は京の六条河原で斬首され六十三歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。、毛利氏も防長二国に国替えとなり寺領は没収され衰えていきますが、毛利が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国、正則公の祈祷僧宥珍が住持となり宗派を禅宗から真言宗に改宗、不動妙を本坊に移して本尊とし不動院と称するようにる。やがて明治に入ると次代の権力者から離れ庶民の信仰の場となった。
不動院の文化財
楼門 国重要文化財 三間一戸、二階二重門、入母屋造り、本瓦葺き
上層の尾椎に「朝鮮木文禄三」(1594年)等の刻銘があり、文禄の役に従軍した恵瓊が当時の朝鮮から 持ち帰った材木で建立したものと言われていますが建築様式から室町時代のものとみなされます。
金堂 国宝 桁行三間、梁間四間、一重裳階附、入母屋造、柿葺きの建物。
大内義隆が周防山口に建てた物を安国寺恵瓊が移建し、仏殿にしたものと伝えられています。現存する 唐様の建築としては最大の遺構であり、中世の本格的な仏殿の規模を覗うことが出来ます。
正面一間通りを吹き通しとした珍しい構造は大陸的な正式な手法と考えられます。
天井に描かれた天女と龍の絵には「天文九年の・・」(1540年)の賛があり建物の創建もこの頃と推定さ れています。
鐘楼 国重要文化財 桁行三間、梁間二間、重層袴腰附、入母屋造り、柿葺き。
永享五年(1433年)に建立されたもので、内部には恵瓊が朝鮮から持ち帰ったと伝えられる高麗初期の 名鐘、高麗鐘が(国重要文化財)があります。
四面には天女の文様が美しく、蓮華の中に菩薩の座像があり、信相菩薩の銘が刻まれています。
仁王像 県重要文化財 像の高さ2,8メートル
檜材、寄木造り、玉眼入り。像内に永仁二年(1294年)の銘があります。