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JR可部駅
明治45年太田川橋の完成によって、同44年7月広島・横川駅~可部駅間の軽便鉄道が開通。昭和5年全線電化工事を終える。
明治以降山陽・山陰の交通の要衝として、可部街道は栄え、今でも豪商の屋敷、商家が点在し昭和の佇まいを残しています。 |
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明神社と舟入堀界隈
2の日7の日に一日市場が立ち、地元からはムシロ、たばこ、山繭織物など、農業の合間につくられた産物が集荷される一方、山陰の木材、木炭の産物や、太田川をさかのぼって、瀬戸内地方からは、干し鰯、塩鰯などが売買され、地方からの来客で可部の市はにぎわっていました。
秋になれば、備後、出雲、伯耆、石見の国から米や、鉄などの集荷物が集まり、また高田郡や、山県郡の年貢米が舟入堀に送られ、人も集まり町は問屋商売を主業とする旦那様商売で繁栄してました。 |
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可部貯蓄銀行から広島銀行え
可部貯蓄銀行は資本金3万円で明治29年6月に開業した。好調な業績を背景に明治36年資本金を6万円に増資し、大正10年貯蓄銀行から普通銀行に転換し可部銀行として業績を伸ばし、昭和3年芸備銀行へ営業権が譲渡され、現在の地に社屋を建築しました。
可部街道では石造りの西洋建築は初めての事であり可部の商人も銀行に行くには、背広に革靴と鞄、大島に、雪駄の旦那衆の風俗をかえた。戦後芸備銀行も、広島銀行に吸収され広島銀行可部支店として営業していましたが、残念なことに今その姿を見ることは出来ません。
初代役員 取締役頭取 深田宗平 専務取締役 戸田宗三郎 取締役 西村喜平 監査役 海塚新八 深田耕一 |
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郵便局・電話電報局
緑灰色の横羽目の木造洋館三階建築はちょいとばかり派手な建物で、一階が郵便局、二階が電話局、電報局で、4~5人の女性交換手が忙しく働いていました。市外通話は回線が少なく待ち時間が長くなり、、気忙しい可部の商人は、通話料が割増しの急報通話か、じっくりと待つ始末屋と、可部の商人気質を覗い見ることが出来ます、やはり資産を伸ばしたのは始末屋に軍配があがったようだ。 |
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可部町役場
鎌倉時代に集落の形体を成してきた可部の町は、南村(上原・可部3・4・5丁目)中島、中屋、中野、上中、城、東野村に囲まれる小さな集落で、根の谷川と帆待ち川の舟便と、馬車の物資集散の津でもあったようです。
江戸末期から周辺の集落が整理され、昭和初期には上原・中島・中野・中屋が中原村に、昭和15年可部町が周辺の村を吸収し、「折り目」に可部町役場が設置されました。
「折り目」は可部の行政の中心地で、郡役所、町役場、税務署、警察署、郵便局、銀行、小学校が終結していました。
当時の町長は朝枝三郎次、町一番の知識人、文化人でした。
役場は後に町医者の小路医院に継がれ、三和土を上がって右が診察室、縁なしの眼鏡をかけた優しい先生は、永く学校医を務め、住民から信頼されていた。 |
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折り目
可部街道を北へ進むと街道は左に90度曲がります。遠見遮眼の「折り目」です。半町で直角に右に曲がる形態は、東西方向の街道筋で古代条理制の里界線遺構を利用しています、かっては高田郡吉田宿、山県郡本地とともに郡代官所の所在地として、交通の要衝でした。街道筋角には商売の神胡神社が祀られ、毎年11月戎祭りが開催されると、地方から押し寄せる買い物客が道路一面にあふれていました。
隣にある警鐘台、消防車庫が町の防災を守っていました。 |
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道路の形体
町の背後の高松山山頂に城をかまえる高松城城主熊谷が、城下町を守るために敵の進行を遮る戦略的目的の鈎型の道路形態ともいわれ、城下町ではどこでも存在しますが、これほど直角に曲がる形態は珍しく、「折り目正しい可部の町」と呼ばれていますが、一方では運転手泣かせの可部の折り目でもありました。
街道の中央で、呉服屋、造り酒家、本屋、時計店、自転車店、八百屋、魚屋、薬屋など多くの商家が集まり、買い物客が町にあふれにぎわいを見せた商店街です |
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呉服店
明治31年(1898年)高宮郡と沼田郡が合併し、新たに安佐郡となり可部町に郡役所がおかれると、街道は活気を帯びてきます。呉服屋さんは六軒、いずれも郡内あるいは山県、遠くは三次からの買い物客で賑わい繁盛していますが、ほとんどが買い物通帳の掛け売り、問屋商売の殿様稼業です、コメの収穫期に併せての年一度の支払いです。ゆったりとした1年分の運転資金がないと可部では商売できないという事ですか。
多く見られる町家、商人屋敷の二階の虫籠窓は格子に囲まれ屋根も低く、蔵座敷の形体で2階には住めないようです。止めた客が夜逃げしないための用心とも言われていますが、そういえば階段上には引き戸があって、2階を締め切っていますが、盗難予防の為が本来の目的でしょう。 |
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自転車店
安佐郡内での一番最初に商売を始めた自転車屋さんです、明治後半の時代自転車は高級な乗り物で1台一〇〇円が相場のようで、近郊の豪農の主人が現金払いで息高く乗って帰ったと主人が話していた。今なら気分はトヨタのクラウンか。、
隣は胡神社と警鐘台。その隣が消防車庫、当番が一人交代で常勤していますが、いつも二~三人が集まり、焼スルメの臭いが漂う酒盛りの宴。、親父には、警防の当番といえば公に商売がサボれる。隣の電話局から一報が入るとそのまま飛び出す。一杯入ってるからサイレンも鐘も景気良い、途中で隊員をひらいながら火事場に駆けつける。 |
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二軒長屋の洋服仕立て屋と手作りソーメン
右が仕立て屋の山崎さん、足が不自由で座り込みながら洋服を仕立てていた。炭火が乗ったアイロンが蒸気を立てて洋服生地を伸ばし、裁断されミシンに掛けられる技に見とれ眺めることが楽しかった。
隣が室さん。ここは老夫婦、手延べしたソーメンが上の竿から下の竿に伸ばされ、老婆が手際よく竹を通して、街道に並べられての天気干し、何しろ通る車は朝夕四往復の省営(国鉄)バスと赤鬼と呼ばれる郵便車が二往復、あとはせいぜい馬車か荷車、のんきな街道だ。 |
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時計屋さん
一眼鏡をかけた主人が腕時計を分解し部品を小皿に振り分けながら、組み立ててゆく技を窓越しに眺めるのが道草。目障りなのか右手を振りながら追い払おうとする仕草にも負けないで時間をつぶした。
隣は和裁の教室、町中の御嬢さんが絶えなく通っていました。後に広島文教女子大学となり可部近郊はもとより広く女子文化に貢献しています。 |
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鈑金屋さん
一枚のトタン板をはさみで切って、拍子木のような木槌で叩きながらバケツの姿になる。底を丸く鋏でつまんで、8番線で縁をとり、持ち手を付けて見てる間に一個のバケツが仕上がる。何度見ても楽しい物づくり風景。
現在は、NPO法人が立ち上げた、古民家再生のグループホーム喫茶「可笑屋」、憩いの場所です。 |
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山繭原糸問屋 塚本
明治中期から可部は山繭を原糸とする可部紬で栄えてきました。周囲の農家が閉農期に夜なべをしながら紡いだ糸を集荷し、洗い染色して織物工場に届けていましたが、可部山繭織物全社が設立されると、大量生産がおこなわれ、明治44年には、中原の松井に次いで、深田・入江・住吉・増井の四つの工場が設立されました。
副業で織る場合、一反織るのに3~4日、織賃は10銭から20銭程度、美しく軽くて強く反物は着物にふさわしいと上方では貴重な織物として好評でした。、可部紬問屋の入江では、最盛期には大阪、京都に営業で出かけると、帰りには千両箱を担いで帰ったと、いわれていました。大正11年の3ヶ月間で、女工の給金が2円50銭の時代、総額5838円の販売を行っています。 |
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路地裏の四軒長屋
吸い上げポンプが一台空き地の中央に残っています。ここには向かい合わせに二軒長屋があり、中央のポンプが共同の炊事場です
右側が髪結いの亀井さん、おごうさんの二〇三高地が当時のはやり、隣が豊島さん、塚本さんからの手間仕事で毎日カタコトと機織り機の音が絶えなかった。向かいの手前は幕之内さん。手に障害があり、近所の残飯を集めて、豚小屋に運んでいた。 |
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蔀戸(大戸)の塩問屋 藤井屋
夜になると右側のケンドンが閉められ、大戸(蔀戸)が降ろされる。昼間は鎖で釣り上げてあり、荷車が出入りできるに十分な広さとなる。この界隈の商店のほとんどに取り付けられている可部の商家の基本的な形体です
塩は専売の時代です、安佐郡一円に塩を収める塩問屋と、肥料の販売店として一日中繁盛していました。 |
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写真館 シゲタ
店の看板にシゲタ写真館 SINCE1913とあるから、丁度100年を迎える。西洋風の建物は街道では珍し洋館建としてく、一際目立った存在だった。
我が家の家族写真もみなここで撮って戴いた。昭和27年、親戚と家族のモノクロの写真が、今でも綺麗に残っています。 |
可部のお寺 |
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品窮寺 「ほんぐうじ」
古くは、真言宗、臨済宗ともいい明応元年(1492)現在の地に移り、浄土真宗仏護寺として十二坊の一つとして数えられています。
可部は、浄土真宗西本願寺派の安芸門徒の強いところです。中でも品窮寺は京都西本願寺、広島の佛護寺に次ぐ直本寺で、檀家、門徒は江戸時代まで高宮郡(安佐南・北)八か村、他郡三四ケ村のほか石見の国まで及んでいましたが、今では法縁的な檀家、門徒制度になっています、門徒数も多く600近い檀家に支えられています。、我が家も檀家の一つです。
本堂は、本来禅宗様式で、江戸中期の遺構で、鬼瓦には三つ○印の寺紋が付けられ品の号で「ほんぐうじ」と称されています。
原爆罹災者収容 108名 死亡 32人 |
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勝圓寺 「しょうえんじ」
子供のころは、三角ベースの格好の遊び場だった、また夏場は、縁側を吹き抜ける涼風に昼寝する古老の絶好の避暑地で、子供たちの遊ぶ声が喧しくて眠れないとよく追い出された。
境内には、だいえい和上の墓所、鉄問屋南原屋の墓が江戸、明治の歴史の中に存在している。
忘れる事が出来ないのが、原爆の被災者の収容所となった時代。多くの罹災者が運び込まれた。自分も何人かの罹災者運び込み、死者を運び出しただろうか。数えきれない。夕刻河原でお年寄りが荼毘に賦した。悲しいかな阿弥陀如来に迎えられることもなく昇天した被災者の無念を、だれが知ることだろう。
原爆罹災者収容 128人 死亡 87人 |
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願船坊 「がんせんぼう」
開基は元亀2年、南村から移されたとあるから、元々は上原菩提寺あたりだろうか、1746年西本願寺派から東本願寺派に移りさらに1862年西本願寺派に、佛護寺の12坊の一つ。境内には昭和初期に可部幼稚園が開園していまる。
安芸弁ガンス言葉の起源「かべの願船坊には、今日聴聞がガンスでしょうか・・・・」で名を成してる寺も可部では面白い存在だ。
原爆罹災者収容 80人 死亡 35人 |
可部の造り酒屋 |
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「菱正宗」 久保田酒造
可部街道には4軒の造り酒屋があった。辛口の菱正宗は久保田酒造、庭には「高松宮殿下」の石碑が立っている。殿下も可部の酒を味わったのだろう。 |
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「旭鶴」 上久保酒造
上久保酒造の旭鶴は住民に愛飲される辛口ですがすでに廃業されています。現在は建物もなく更地となっています。 |
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「白瀧」 白石酒造
白瀧の白石酒造は、甘口で大衆派です。先代は可部の町長を務め、可部の歴史を学ぶには貴重な存在でした。 |
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「旭鳳」 濱村酒造
元気なのは、濱村酒造の旭鳳のお上さん、可部の地下水をくみ上げ、豊平の契約農家からの酒米での大吟醸は可部の酒を代表する逸品です。 |
可部の醤油醸造:店 |
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中川醤油店
可部は水どころ、明治後半から大正、昭和にかけて4軒の醸造業が営われていました。
中川醸造は、間口には可部の産物 可部紬の原糸山繭や、小織物が商品醤油瓶と並び通りがかりの人を誘惑しています。、 |
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増井醤油店
手作りの醤油が瓶詰で店舗を飾る姿は、可部の商家の落ち着いた風情を感じます。玄関の大戸は、夕暮れには降ろされ障子格子の木戸口となって町家の風情を残す佇まいも、可部街道ではただ1軒となりました。 |
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西村醤油店
学校帰りの裏路地は醤油の醸造工場の壁に沿ってる。時々何とも言えぬ香ばしい香りが戦時中の空腹に 応える。
西村醸造は可部では最も歴史が古く、江戸末期1798年創業の醤油屋さんです。
主人は、可部貯蓄銀行の頭取を務め、可部郵便局の創立者です。
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棚谷醤油店
棚谷醤油はすでに廃業していますが、老健な建物は100の経過も健在で、今ではお好み焼き屋さんとなっています。 |
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日常雑貨屋さん 百貨店
明治29年、可部貯蓄銀行の発生の地といわれる。操業も古く大正末期のころでしょう。当時はずいぶんハイカラの商品が多く、小間物から家庭用品と幅広い品ぞろいで町の百貨店です。
隣の町便屋さんを利用して、注文品が翌日には届いていました。 |
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煙草屋さん
町中のタバコ屋さんの窓口は、タイル張りの飾り窓から、看板娘が愛想よく迎える姿も消え、でっかく自販機がその役目を務めている。
♪♪ 金鵄輝く15銭 はえある光は30銭・・ ♪♪
30銭持ってよく買い物にいった、煙草の買い物は待ったなし遅くなるほど親父の機嫌が悪くなる。 |
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駄菓子屋さん
虫眼鏡越しに新聞を読みながらのお店番は、砂屋敷のおじいちゃん。常連の高校生から子供たちまでが、当たり籤を求めながら、棚から、瓶ケースから駄菓子を籠に詰めていた。。残念ながらこの後お店に車が突っ込み、駄菓子屋さんもやむなく閉店された。 |
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路地裏のお医者さん
常久医院、ここの先生には町中の子ども達はずいぶんお世話になりました。当時はやりの病肺炎、扁桃腺、疫痢などの高熱に、昼夜なく自転車で駆け付け往診していただいた。やさしくて頼もしい名医でした。今も家の佇まいは当時の面影を残しています。 |
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