散歩道    

城下町可部街道を散策 
出雲街道沿いに並ぶ古い家並みと路地を巡って

可部周辺散策ルート(安佐北区役所製作) 現在の可部町

  可部線終着駅可部駅を降りて西口改札をでると、昭和39年5月に開通した国道54号線に通じる。いきなり可部の主産業であった鋳物の街の雰囲気を感じる大きな工場、大和重工が目に付く。国道を北に進むと、高架橋の手前に広島市指定の文化財「千代の松」が大きく庭一面に枝を伸ばしている。この地が、元舟問屋の庭園であったことから太田川からこの場所を経由して明神の船堀に通じていたものと推測されます。

鋳物工場大和重工 広島市指定 千代の松

浜の明神さん 川舟交通路 入舟堀口

  可部駅東改札をでて駅前商店街を抜けるとすぐの旧街道を右折すると、こんもりとしたと銀杏に囲まれてた通称”浜の明神”がある。江戸時代から太田川を利用した舟交通の湊「舟入堀」は可部街道の交通の基点であります。私もこの地から可部街道に残る風俗、風習、文化の歴史をたどる散策を始めましょう。

 江戸時代に建立された厳島神社(明神神社)は、通称「浜の明神」と呼ばれ、拝殿は唐破風と千鳥破風を組み合わせた豪華な造りです。広島城下町と直結した太田川の川舟の発着場「舟入堀」がこの地に設けら、周囲には藩の年貢米を預かる蔵が立ち並びれ、常時30人の車夫と、駅馬20頭ガ置かれ、川舟五拾艙と船頭、町には巡検史を接待するためのお茶屋が建ち、豪商の町屋が本陣として採用されていました。
 川舟によって周辺山間部や、山陰の産物を広島に積み出し、瀬戸内海の海産物や、塩を山間部に運び、山陽、山陰を結ぶ出雲・石見街道の中継地点でもあり、浜の明神はにぎわいのある市場です。 商人から預かった荷物の僻地間の中継地点として、貨物輸送の施設、広島~可部間の舟の整備創業は問屋機能を持った町として発達し、可部の機能を更に発展させましたが、明治の終わりに可部軽便鉄道の開通によって、その機能は衰退し、昭和に入って舟輸送の機能も失い舟入堀も埋め戻され、現在は公園となっています。公園の片隅には一基の鉄燈籠が舟旅の安全のお守りとして設置されていましたが、いまもその名残として建てられています。 

下の浜から駅前を経て、町並みは4丁目、3丁目と続きますが、古くから営んでいる造り酒屋、醤油醸造のお店が昔の姿を残すだけで、町並みの多くは近代的な建物に変貌しています。

 4丁目から路地裏に入ってみますと昔の町名の水主町、主善名前の通りこの地からは懇々と水が湧き出し、網の目のような水路にそって、明治後半に水道事業を開拓した清水氏の記念碑を見ることが出来、豊富な水源がこの地にあった思れ、路地はすべて水路に沿います、そのためか路地道には十字路がなくすべては水の別れに沿って三叉路です。思わぬ発見があります。帆待川から舟入堀に通じる水路が開かれると、河戸、四日市の湊より洪水による被害がなく、多くの船頭の家が並んでいました。現在も渇水期を除いて水の湧き出す水路を見ることができます。

 ひっきりなしに通る車を避けながら進むと、古い家並みが並ぶ中、ひときは目立つ洋風の建物が目に付きます。明治末期から大正にかけての石造りの建物です、明治29年可部貯蓄銀行として発足し、大正12年に可部銀行、昭和3年芸備銀行に吸収、戦後広島銀行と合併し可部支店に、現在はお茶、お花屋のお店となって、そのハイカラなたたづまいを残しています。

 更に1丁進むと街道は直角に折れます、このあたりは「折り目」と呼ばれ、角には胡神社が建ってます。1715年に建造されたもので、毎年11月20日、2丁目の商人を中心に「えびっさん祭り」が行はれ、昭和40年頃までは、誓文払いの売り出しや、出店に、買い物に寄せ掛ける近郊の人々が、町に溢れていました。
胡神社の裏は、「吹屋」名前の示すとおり鋳物産業の蹈鞴の工場が数軒、隣が「上仮屋」鋳物を焚くと4~5日は火との生活で工場のすぐ近くの仮の住まいでの生活です。その裏が「川原」鋳物のくずを捨てる川原場です。生活と密着した字名が残ってるのも楽しいです。

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 「折り目」 北に向った街道は5~60メートルで直角に右に折れます。後方の高松山城の熊谷城主により城下の防衛手段として敵の侵入を困難にするために造られた道路形態で、城下町で多く見られます。
 このあたり1丁目から、下の町にかけては、きり妻、出格子の家が連なり町屋も城下町の屋敷の名残りを感じることが出来ます。各家に家紋や思い思いの装飾をした袖うだつや、袖壁が目立ち、格子造りは、縦格子に横格子を加えた江戸末期の特徴を残し、それぞれが見事な彫刻の持送りの出格子で飾られています。中でも二階の窓が見事な出格子になってる姿はあまり見かけることはないでしょう。どの家も保存状態は好く、日常の生活の中に是非何時までも残していただきたい思いがします。
 間もなく可部高校の入り口、大正12年4月、実科高等女学校として発足、大正15年4月県立可部女学校に昇格、可部地区を中心とする女子教育の普及向上に大きな役割を果たします。昭和23年4月新制高等学校の発足に伴い、男女共学の可部高等学校に生まれ変わります。

可部街道を外れて、裏路地に入ってみると昔の古い建物群が細い路地道にひっそりと佇み白い壁に、舟板を焼いて貼り付けた白と黒の調和のとれた壁が見られます。昔あった向かい合っての2軒長屋は今はなく、ただ中央に手押しのポンプが残るだけで、お上さんたちの井戸端会議がしのばれます。

 下の町から、上市にかけて建物も立派に保存された江戸末期創業の2軒の造り酒屋があります。白石酒造の「白滝」、浜村酒造の「旭鳳」5丁目の久保田酒造の「菱正宗」、上久保酒造の「旭鶴」など豊富な地下水の得られる可部の代表的な産業で、いずれも幕末より明治にかけての創業です。浜村酒造の手前から、可部街道と浜田街道に別れ、浜田に25里とあった道標は今は見当たりません。

 

上市は江戸時代より、牛馬の市で栄えた町で大正初めの頃の可部牛馬市は、備後久井の市,石州出羽の市とともに中国三大市の中に数えられました。牛市が立つと、上市、下の町に與行用の仮小屋が立ち、芝居、浪曲の芸人の出し物で賑わい、近郊の牛を売る百姓と各地から集まる博労のフトコロ目的の御茶屋で豪華な芸者遊びが行われていました。現在は可部街道の町並みの終点に稲荷神社と、廃業された御茶屋が1軒残ってます、明治初期のタイル模様の飾り格子窓が当時の繁栄と旧街道の名残りを感じさせてくれます。稲荷神社は毎年2月初午の日が祭日で、牛市が立つと参拝者で境内はうずまったと伝えられます。
昭和30年代、古老の博労が自慢そうに話してくれた。多い日には千頭の牛が取引されたと、現在の金額に換算すると、牛一頭60万としても6億円、そんな金額がこの市で動いたのだろうか??ま~~話は物語として聞いておきましょう。

可部街道散策を終えて。
 可部街道に面する商店街は下の浜から始まり、上市で根の谷川に面して終わりますが、もすこし根の谷川に沿って歩いてみよう。井出の上、城で可部街道は、出雲街道、石見路と分かれます。分かれ道には、由緒ある格式をしのばせる白壁の屋敷と土蔵があり当時の左官と大工の技が覗えます。白壁に沿って石見路に入ると間もなく一里塚ここで可部は終わります。

可部町から消えて現在はほとんど使われなくなった町名
上仮屋、吹屋、川原、憲安、森の下、上ガ市、上中、光善坊、水主町、主善、藤森、中屋、中島、上原、五里田、台、東原、井出の上、城、水落、九品寺、静養園

 


可部街道 町並みに残る うだつ 切り妻・出格子戸の家

都市化による街の変貌で、旧街道に残る明治・大正・昭和・平成と四代に渡って城下町・可部の面影を残す家並みも年毎に少なくなってきました。日常の生活の中で純日本風な建築物を保存することも大変なことでしょうが、心安らぐ可部街道の町並みの景観としていつまでも残しておきたいものです。

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うだつ梲・卯建は芸術

梲は、梁の上にあって、棟木をささえる短い柱、卯建は、建物の外に張り出して防火に備える壁で、可部の町並みの全ての町家には、素晴らしく美しくデザインされた卯建が取り付けられています。「うだつが上がらぬ」と言うのは、梲のように上から押さえつけられて思うように動けないこと、あるいは卯建は富裕な家でなければ上げられないことから転じたものとされています。が、可部の町並みでは防火のための設備でどの町家でも見ることができます。江戸後期から明治にかけて建てられた卯建は当時の左官職人の鏝の芸術です。見事な卯建を観て歩くのも夢街道散策の一つの楽しみです。




あと書き   「かべ旧街道散策」を終えて

 江戸期後半の街並みを眺めながら歩いていると、ふと思い当たるものがあった。町家の造りが全て二階造りであって、古い家ほど二階の軒先が低く、窓は全てが鉄格子のはまった頑丈な造りになっていることに気がついたでしょうか。なんでもなく見逃すところでした。
 1638年(寛永15年)東西50間、南北8丁16間の可部町屋に、133人が178軒の屋敷を形成するほどに発展した街は1736年(元文4年)8月の大火により消失家屋129軒、その後1745年(延享2年)4月二度目の大火により町のほとんど268軒が罹災した。
 この二度にわたる大火で町の全てを失った可部にたいし浅野藩は、これ以降の建物については、藁葺きの屋根を廃止し、全てを黒瓦葺とすること、壁と壁の間には袖うだつ、壁うだつで仕切り、家の構造は蔵造りと制定されたため、うだつによって仕切られた二階の窓も蔵様式で、鉄格子戸、虫籠になっています。また、二階の軒先が低いのは大名行列を上からこっそりと、のぞいて眺めたい為であって、低いほどに古い建物であると、古老が話してくれましが、実際は二階に住むことは許されず、。蔵屋敷の形体を保ちながら住まいとしての工夫によるものです。
 このことから察しても、この街並みの二階の造りが蔵造りとなっている町家は、家屋の登記が始まった1892年(明治25年)以前の建物であって少なくとも140年以上の歳月と風雪に耐え忍んでいるものです。

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