安芸国守護武田氏と 銀山城

銀山城の築城は鎌倉時代の後期宗野時代と伝えられています。
武田氏は、鎌倉時代、承久の乱の殊勲により信光が安芸国の守護に任命されるが甲斐に本拠があって、守護は主として代官を派遣して行っていました。が、最初の蒙古の到来があった1274年11月幕府は、武田五郎次郎に対し安芸国に下向し国守地頭御家人と本所一円の住民を率いて外敵防戦の準備をするように命じており、武田氏はこのような状況の中1275年〜1276年にかけて銀山城の築城を始め以降300年に渡り安芸国を支配してきました。
武田山の頂から眺める祇園の町は、安芸国から運ばれてくる物資の保管倉庫が集中している倉敷地であり、政治、経済、交通の重要な場所として、武田山の頂上に城を築きました。

現在銀山城跡には斜面を削り取り50近くの郭や、切り堀が残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡は、自然石の巨岩が通路を直角に取る鍵の手の石積を残しており、近世城郭の枡形として大変重要なものとされています。他にも「馬返し」「見張り台」「観音堂跡」など、広島県下に山城、出城を含めて5000近くあると伝えられている中で毛利元就の郡山城と並ぶ国内でも最大級の山城です。
武田山に連なる火山、丸山の稜線を歩いてみると、山の頂上は自然の石を利用した巨岩が砦となって容易に敵の侵入を受け入れない堅い守りは、中国地方の統一を図る大石氏の激しい攻撃にも落城することなく戦国時代を統治してきた武田氏の勢力を知ることができます。
しかし、この名城も、武田氏の勢力の衰えだした1541年大内氏の配下毛利元就の戦略により落城し、大内氏の配下に置かれましたが1554年には毛利元就が自身の居城として治めてきましが、毛利氏が去った後は徳川時代の一国一城の命により廃城となっています。



武田山

火山

丸山

巨岩石群

岩石群

観音岩

鹿谷櫓

登山口

登山路

御門跡

馬場 馬返し

岩石の砦

岩石砦

上高間跡

下高間跡

観音堂跡

頂上

御守り台

千畳敷

館跡

鶯の手洗い水

広島湾

祇園町

可部方面

古市・安方面