散歩道
可部のお寺
安芸門徒と真宗信仰
江戸時代の可部は他の地域と同様に熊谷氏や武田氏あるいはその地域の地在地主の庇護の下に栄え、信仰も天台宗・密教真言宗や禅宗が支配的でありましたが、江戸後期にはそのほとんどが没落し寺院の跡は地蔵堂・観音堂・薬師堂の佛寺としてかろうじて残っています。
戦国時代以降、毛利氏の発展と結びついて、安芸の国西部の浄土真宗が勢力をまし、「安芸門徒」として可部地域を含む太田川領域一帯は真宗門徒信者が多くなり可部地域の寺院は全て他宗から真宗に改宗されました。
■ 安芸門徒
本願寺は当時大阪の石山(上町台地)に城郭のような伽藍を構えていた。本願寺は大きくなりすぎていた、その法主は公家貴族化し、できればこのまま安泰に膨張を続けていきたかった。が、国々の門徒は公家と言う時代遅れの律令制的権威とは無縁で、新興地主的な気分に満ち、大名や地頭なしで自分達の合議で、一国の政治を切り盛りしたいと言う欲望を持っていた。
大阪石山本願寺は、国々の一向一揆を好まなかった。無論統一勢力として成長しつつある織田信長の勢力もそれを好まなかった。織田は国々のうるさい門徒勢力もさることながら、それよりも石山本願寺を攻めつぶそうと思い、喧嘩を吹っかけた。いわゆる石山合戦といわれる長期戦が始まった。勃発は1570年で、その翌年には毛利元就が安芸の吉田の郡山城で死んでいる。この戦争は本願寺派の屈辱的な和平に至るまでには10年続いた。
その後織田氏は他の方面に多忙であったし、さらに伊勢など本願寺の手足と言うべき門徒勢力圏を攻めつぶしたりして、石山の本城そのものへ大挙して攻め寄せるまでには数年かかった。この間毛利元就の死後の毛利家も膨張している。やがて織田が中国に攻めて来るだろうと言う予感が、毛利氏中枢部にもあり、その準備をしていた。準備の主なものは外交であって織田氏とできるだけ仲良くやっていこうと言うことと、織田氏の情報の収集であった。
織田氏と毛利が表面上は微笑み外交によって親善しつつも、裏面ではお互いに長い手を廻して、相手に不利になることをし続けた。両者が交戦状態に入ったのは石山合戦が勃発して6年目の1576年、毛利が本願寺を乞いいれ海路兵糧を送り、それを武力で石山城に入れたからである。それ以前も毛利氏は安芸門徒が集めた兵糧千表を石山城まで輸送することをやっていた。
安芸門徒と、中国10カ国の大名である毛利輝元が一体となっていることが面白い。安芸の門徒集団が、領主の毛利氏と一応のかかわりなしに、石山救援のための兵糧を集めていたと言うことも、織田的な政治体質では考えられないことであった。
信長を相手とすることで、毛利氏と安芸門徒の利害が一致していることもあるが、それにしても毛利の領民でありながら集団では独自の姿勢をとっているかのような気配があるのは、当時の世間から見て尋常なことではない。他とは際立って異質な価値観を持つ安芸門徒という集団は、石山合戦以降、多分に政治化しているにも拘らず、毛利氏が当然支配者としてもちがちな嫌悪を、少しも表に出さず従来どおり絹のような手触りで接触し、門徒のエネルギーを自家の利益にひきつけていったあたりは、さりげないことながら、戦国5大老の一人毛利輝元の智恵である。
「品窮寺」ほんぐうじ
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中深川で真言宗として開基、桐原に移り更に八木を経て可部に移り浄土真宗に改宗 |
本末制度は、各宗派の本寺本山を最高位として本寺・中本寺・直本寺・孫本寺と上下統属関係を定めたもので、この制度は17世紀末には確立されています。安芸の国は西本願寺系が多く、中でも京都の興正寺が多く、可部のお寺を例に取ると「西本願寺~(京都)~興正寺(京都)~東坊(京都)~佛護寺(広島)~品窮寺(可部)~勝円寺(可部)~誓立寺(河戸)と繋がっています。
それぞれのお寺の檀家と門徒の関係は幕藩権力の宗教政策によって檀家制度として固定化したもので可部地域各村ごとに一寺院があったわけではなく、江戸時代の品窮時は、高宮郡(現安佐北・南区)八ヶ村、他郡三十余ヶ村のほか石見の国にも及んでいましたが、江戸後期には他縁的な檀家制度に移り、今は法縁的なお寺檀家、門徒になっています。
「勝円寺」 しょうえんじ
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勝円寺本堂 | 大瀛和上墓地 |
大瀛和上 (だいえい)
大瀛和上は、(1760年~1804年)山県郡筒賀村(現北太田川町)出身で、11歳のとき出家広島報專坊の慧雲の門に入り、就学を修め上京本山の学林で学び、各地を遊歴して研鑽を積み、1791年勝円寺の住職につく。寛政の頃起こった浄土真宗の安心惑乱に際して芸備両国の学徒を統率され、一心を賭して誠意挽回の衡に当たられた。法門糺名の中5月築地の成勝寺で没す。享年46歳 弟子達の手により道場庵 勝円寺に葬られる
「安心惑乱」
親鸞の教学は、この阿弥陀如来の本願と言うものを純化し、「万巻の経巻を読む必要はなく、行や呪術を用いることなく、ただ南無阿弥陀仏の御名号を唱えるだけで、その一事で往生が決定する」と言うものであった。これだけでは宗教になりにくいと言う思想的不安感が、本願寺の教学の中軸からでてきた。
仏教で、業とというのは、行為としての善悪のもとをなすもので、三業というと、身、口、意(こころ)である。当時の本山の学僧が「浄土に生まれたいと思えば、三業に祈願と、請求をこめて阿弥陀如来に頼まなければならない」といいはじめ、本山はこの学説で固まった。本来、親鸞の思想には祈願という考えも、請求と言う考えもなく、そういうことをしなくても如来が救ってくださると言うのが、他力であるというものであって。祈願や、請求は自力であり、この学説は明らかに意端(異安心)の説であった。この本山の学説を異安心として戦ったのが,大瀛と安芸の学匠たちでした。
やがて全国の学僧のほとんどが安芸学を支持したが、騒ぎが大きくなり、ついに1804年江戸幕府が乗り出さざるを得なくなり、、江戸に両派を招いて法論させ、幕府が、安芸派を親鸞の教説であると裁定し、本山の学僧だけではなく本願寺門主をも処罰した。
安心(あんじん)と異安心という難しい形而上論議が、これほど深刻に戦われたのは異例なことでもあった。
「願船坊」 がんせんぼう
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広島地方の方言から 「安芸がんす」と「可部がらす」
「可部がらす」 一説には、可部の人情をよそ様の人が、外部から見て言った言葉と伝えられています。昔、可部の町外れに一軒の古寺があった、住職がとてもよい人で、可部に買い物や見物に来た人たちは、このお寺の境内でお茶をいただいて弁当を食べていました、食べ残りや折箱をゴミ箱に捨てるとすぐに烏がやってきてそれを咥え近くの家の縁側に土足で上がり撒き散らしていた、追い払うと逃げるが、また集まってくる。このようにして可部の烏は嫌われ者になった。可部の人は計算づくでものを考え、敏速で冷悧、しかし反面人のよい世間知らずで、殿様適な面もあるが近郊の村落からは嫌われ者の烏になぞえて「可部がらす」と呼ばれるようになったと伝えられています。「江田島トンビは狙った獲物は放しはしない、可部のカラスは腹まで黒い、廿日市のタカは目玉を抜きよる。」といずれも明治時代の商売人の人情、人柄を現したものとして語られていましたが、いずれにしろ「可部のからす」はダーティーなイメージです。
また一方では方言からなぞられたとも考えられます、ヒロシマの中でも安芸地方の方言の代表格は「がんす」でした。山陽道では「備後ばーばー、安芸がらす」と呼ばれていました。
「可部の願船坊にゃあ、今日は聴聞ががんすでしょうかのー、がんしゃーがんすような話ががんしょうに、話ががんせんけーのーがんせんのじゃろーのー」 と、「がんす」言葉は可部地方が本元とされています。
起因として考えられることは関東御家人衆たちです。「武士の一分」の会話にも出てきますが、鎌倉幕府において各国を守っているのは基本的には「守護」と呼ばれる幕府直属の御家人達です。甲斐の武田氏が安芸の国の守護を命じられて赴任した田舎武士達の言葉尻にも「・・・ごぁす」にかわって「・・・がんす」が使われています。室町時代から江戸時代にかけて、銀山城の武田氏と深いつながりのあった高松城の熊谷氏の武士達によってのこされたのでしょう。 大正末期まではお年寄りの言葉尻に「・・・がんす」をつけた方言で語られていましたがしたが現在はまったく使われていません。
「安芸がらす」と呼ばれるようになったかについて、元広島女子大学の郷土史研究の某教授は「・・・がんす」がなまって「・・からす」になったと民放のラジオ放送で聞いたことがありますが、私はこの解釈は間違いだと思っています。なぜなら 昭和に入ってからは「がんす」はほとんど使われることはなくすでに死語となっていると思います。それより「聞いてるんカー・見てるんカー・なにしよるんカー・ほーカー・そおカー」とクヮー・クヮー安芸地方の人がしゃべると、からすが鳴いてるように煩いことから「安芸からす」と呼ばれるようになり、「備後ば~ばーに、安芸がらす」と伝えられてきたものであると言うのが私の解釈です
広告屋時代の友人に優れた才能を持つグラフイックデザイナーがいた。コピーライターも出来る、詩もかければ、作曲もする、俳句を読ませれば10分に10首は読む。天は全ての才能を与えたような男だ。彼と酒の席ではよく議論した、最後は何時も「備後ばーばーに、安芸がらす中でも煩い可部がらす」とハンドルネーム「かべ鴉」と呼ばれた私を虚仮にし、可部の戯れ歌を歌つった♪♪・・・カベのカドメのカシヤのカカーが、カにかまれてれてカイイカイイ♪♪♪・・・カベのカラスはカーカー・・・・・。 可部近郊の人たちは「・・・クヮー、・・・・カー」に変わって、現在は「・・ケー」が主流になっているのでは。
超園寺 ちょうえんじ
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誓立寺 せんりつじ
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戦前は、お寺に参拝することが実に多く、娯楽設備の少ない時代でもあって、お寺の恒例行事は民衆の大きな娯楽でもありました。
御逮夜には、食事を出した朝まで会合し、彼岸や宗祖の誕生会には琵琶、浪曲、芝居、漫才、踊り、角力などをにぎやかに行い、盆踊りは老若男女の社交場であり、日曜学校は子供達の仏の信仰と、作法の教室でもありましたが、終戦とともにお寺の姿も大きく変っていきました。