かべ鴉のホームページ
AKI-ゆうゆう
出生地 広島県安佐郡可部町389
現住所 広島市安佐北区可部南4丁目9-49
ネーム 遠北 剛 (かべ鴉)
メール enkitahon@yahoo.co.jp / enkitahon@kza.biglobe.ne.jp
性別 ♂
生年月日 1934年 戌歳 星座 獅子座
血液型 A型
履歴 1941年 大東亜戦争
1945年 核兵器 原子爆弾体験
1945年 終戦
1957年 社会人生活スタート
1998年 社会人ゴール
家族 妻と二人
長男 1991年結婚 長男 長女
長女 1992年結婚 長男 長女
趣味 ゴルフ・スキー・登山・スッケチ・カメラ
好きなスポーツ観戦 サッカー・ラグビー・ゴルフ・野球(高校野球)
音楽 クラシック・ジャズ
賭け事 toto G-1レース
好きな言葉 「己に徹して人のために尽くす」
崇拝する人 明智光秀 坂本竜馬 吉田茂 田中角栄
感動を受けた人 カミュー 「異邦人」 ヘンリー・ミラー 「北回帰線」 倉田百三 「主家とその弟子」
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原爆 体験記 |
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世界遺産 原爆ドーム | 原爆戦没者慰霊碑 |
昭和20年8月6日は、素晴らしく晴天の朝を迎えていた。当時国民学校5年生の私は「勤労奉仕隊」と呼ばれ、校庭に防空壕を掘ったり、校庭の一部を耕してサツマイモを植えるとか、松脂、彼岸花の球根の採集にあたるなど学業のほとんどを作業に奉仕してたため、1週間の制度も変り夏休みもなく、登校の途中で空襲警報の発令により帰途に着いた、間もなく警報も解除となり遅れての登校の時、南の方向にB-29が3機飛んでるのを見つけた。不気味だったすでに警報は解除されている中をゆっくりと東の空え、と前後してだろうか稲妻を思わすオレンジ色の閃光が走ると共に間もなくキノコ型の雲がグングンと空高く舞い上がった。爆風と物を砕く衝撃音がズドッンと響く。落下傘が3個投下されいた、爆風に流されぐんぐんと近づいてくる。落下地点から13キロの地で原子爆弾投下の様子をこの目で見た瞬間です。
落下傘にはキットアメリカ兵が乗ってると、鍬とかカマを持って友と落下地点まで追いかけたが、アメリカ兵ではなかった、遅れて来た憲兵隊によって時限爆弾だと、子供達は追い返され付近の住民は避難を命じられた。観測用測量機器だと後で知らされた。
午後昼食を終えた頃、ぞくぞくと原爆の被災者が非難してき始めた。町内会国防婦人会の人と被災者を近くのお寺(仮の救護所)に運び傷の手当てに追われた。中でも、傷ついた兄が、弟を背負い焼け狂う戦火の中13キロの道を夢中で逃げ、たどり着いた救護所で背中の弟を受け取ったとき、すでに弟は死んでいました。この悲しい現実を、何時兄貴に話せばいいのだろうかと子供心にも随分悩んだ、が、話す時間もなく、夕暮れには兄貴も弟の後を追った。被災者の声から、とてつなくでっかい爆弾が広島に落とされ、広島は火の海だと知らされた。
街道を帰る被災者を救護所に運んでる途中で、芸備銀行(当時)の玄関に横たわって、私の名前を呼ぶ中学生がいた。見れば顔が火膨れて判別できないが、間違いなく私の名前を呼んでいる。「○○だ、お母さんを呼んでくれ」と訴えていた。「崇徳中学の○○」と聞くと「そうだ、早く」の声で思い出した遊び仲間の友達のお兄さんだ、彼の家までの300メートルを走り、「叔母さん、○○さんが銀行の前で呼んでるよ」と伝えた。と同時に着物に下駄の叔母さんは玄関を飛び出し私より先に息子の所にたどり着いていた。だが、私の見たものは、息子を胸の中に抱きこみ「目を開いて、お願い目を開いて」と号泣する、母の悲しい姿だった。私は、せめて後3分でもと責められる悲しい気持ちでその場を去った。
それからは、火傷に苦しむ被災者の傷に、アカチンを塗り、食用油を塗って、膿の中に住むウジ虫を取り除く看護といえば看護の繰り返し、明日は死ぬであろう人の数を数えて、山から薪木を運び川に組んだ石床の上に並べ、遺体を戸板に乗せ藁菰をかぶせて川原に運ぶのが国民学校5年生の仕事でした。老人達が夕方から荼毘に付していました。
たった一発の核兵器爆弾によって、広島、長崎の市民の大半が死亡した。この市民の犠牲の下に、現在の平和があることを我我日本人は決して忘れてはならないと思います。
昭和20年9月17日枕崎台風によって、荼毘に付した川原は大洪水となり跡形もなく流された。水を欲しがり、苦し被いてくるみながら死んだ86名の被災者の霊は、その洪水によって生まれ育った故郷広島に帰ることが出来た。