可部の産業


「可部紬と山繭」

山繭は、野山の楢、ぶなや樫、椎の葉を食べながら自生している蚕ですが、鶯色の美しい繭玉で、この繭から取れる山繭糸は絹糸中の最級品として高く評価されていました。鈴張・飯室・勝木・南原・桐原・上原・八木と可部周辺の山村の農家の副業として森に入り自生している山繭玉を採取し、主婦の夜なべ仕事で山繭を紡ぐ内職は、農家に潤いのある生活を与えることから、農務に余裕のある農家は農閑期の家内作業として、可部町周辺の農家で多く紡がれるようになりました。天保2年(1831年)のころです。
紡がれた糸は、可部の糸問屋によって集められ、選択し選別して織物工場に送られると、、機織工によって反物として機おられ、「可部紬」として可部の主産業としての基盤を築いてきました
明治に入ると可部紬は可部町の織物産業として7〜8織物工場から重要な織物として大量に生産されてきます。問屋によって集められた織物は、紬専門の染物屋に送られ、、藤色、紅梅色、煤竹色、茶色、葡萄色に染められ、根の谷川で流れに晒し、糊干しされた製品は、問屋を通して大阪以西に広い販路を持ちながら大正末期までは山繭紬の最盛期にありました。
日清・日露・第一次大戦後頃は生産も増大し好況を示していましたが、大正11年(1923年)頃より山繭袖以外に絹織物、綿織物、絹綿交織りが現れ、主力は専門の大方紡績工場に圧迫され家内工業としての可部紬は衰退して行き、昭和初期には滅亡しています。

「鋳物産業」

 重工業用鋳物生産   梵鐘  マンホール蓋  

  
可部における鋳物産業は、その伝統と生産規模において、郷土の代表的産業にふさわしい。可部は古くより、石見や山県で産する鉄を使用し、付近の豊富な樫の木を原料とする備長炭を燃料として、鍋、釜、五右衛門風呂、鋤先などを生産してきた。1846年ペリー来航により和親条約が締結されると、1854年急速に軍備の強化が進み藩命により大砲を鋳造していた時代もあった。                    
 明治21年頃より長州風呂の鋳造法が伝わり、新しい風呂釜の普及と共に銅壷、歯車、茶釜などと活況を呈していた
中でも梵鐘に優れた技術を持つ鋳物職人が造り出す釣鐘は各地の神社仏閣に収められた。しかし太平洋戦争の勃発に至り、軍事品の生産に転嫁し各種の工作機械を使用することになり、技術的には現在の可部の鋳物産業を方向つけるに至った。よく歩道で見かける都市のイメージアップをデザインしたマンホール蓋も主要生産品の一つです。

「醸造業」

 醸造業も豊富な地下水の得られる可部の代表的産業の一つです。西村醤油本店、久保田、白石両酒造場などは幕末より明治10〜20年代に創業したもので醸造生産価格は可部の工業製品中第1位でした。最も生産量の多かった大正から昭和にかけては酒造4500石、醸造7500石を生産し、現在も町民の生活の中に溶け込んでます。  

 旭鳳酒造    白滝酒造    旭鶴酒造    菱正宗酒造

                                            

 西村醸造   増井醸造    中川醸造

                               

 「水産業」

 山県、佐伯の両郡の豊かな水量を併せて、西北より可部に入る太田川は、芳ばしい薫りを放つ鮎の漁場でもあります。このため亀山、中原、可部地区は古くから農業の傍ら川舟を持って漁業に当たる人が多かった。また、鰻、川蟹、はやの漁獲もあり、川魚専門の料亭が多く広島周辺のお客で繁盛しています。

太田川での川魚漁  太田川の鮎     根の谷川蟹漁  川魚料理店


 

可部の鋳物産業と

 偽金事件 

   幕末維新期の動乱が可部町にもたらしたショッキングな事件

広島藩は、幕末期に充分な財政改革を行なうことなく維新の動乱に突入していった。ぺりー来航以後の海岸警備や征長出兵、特に戌辰戦後は広島藩の財政を破局的な状態に追いやりました。このため藩は領内、両外を問わず、借財のできるところは借金をしていかざるをえなくなり、嘉永初年約72万両の借財が、明治2年には374万両に増加し、約二十年間に藩債は五倍以上に膨らんだ。之を期に藩は比較的手軽に発行できる藩札や米札を乱発した結果、天保13年末の銀札11,760貫が、明治3年には銀札79,945貫、米札65,408貫と、この30年間で約8倍にも達したのであります。
 維新期の動乱、戌辰戦争は、全国諸藩の莫大な戦費の支出により、多くの藩が贋金を製造して急場を凌いだが、広島藩も諸藩と同様に贋金の製造によって莫大な戦費の支出を図らざるをえなかったのです。
 広島藩の贋金製造は、当時の勘定奉行、伴質健を中心に企画され、明治元年3月ごろから製造されたようです。その後明治2年3月、三原工場を閉鎖し可部工場も5〜6月に閉鎖しています。ところが明治2年の大雨による大凶作で、藩の年貢収入は半減し、その救済や他の資金の必要に迫られ再び贋金製造を再開するにいたり、伴質健・石川忠矣が、財政担当者として着任しています。
 可部町の鋳物工場が贋金製造に拘ったのは、明治元年4月頃より天保銭(当百銭)の鋳造を可部町年寄りで、鉄問屋、鋳物業を営む南原屋木坂文左衛門が藩の内命を受けて担当しています。
 政府の取調べによって、贋金製造が戊辰戦争期に、全国諸藩にかなり一般的に行われていた事件であったことが判明したためか、、政府は明治3年4月29日には、贋金製造につき明治2年の5月の函館平定以前の事件に関わる関係者は、一切放免する主旨の布告を発していますが、広島藩の場合は天保銭の製造を担当した、木坂文左衛門の記した明治2年の「天保銭勘定帳」によると同年の製造状態は2,176両とあるが記録されていますが、後期は不明であります。
 ところが、明治2年後半になると全国的に贋金問題が重大問題となり、政府の摘発も厳しく進行して行く中で、広島藩の公用人熊谷直彦は自訴状を中央政府に提出し、更に明治3年浅野忠英、伴資健らが政府の取り調べのため上阪するようになると、可部町の情勢も厳しくなっていった。同年可部町における製造の責任者木坂文左衛門は高宮郡役所あてに「口上書」を提出しています。その内容を要約すると「政府の厳しい取調べが行われるようになると、鋳銭に関係した約100人の職人とその家族は非常に困難な状態になる。まして藩の役人立会いの下で製造されたとなると大変なことになる。他国の巷の説では例え偽造しても、使用以前に「自首」すれば無罪になると聞いているが、藩内で裁判し処置することがはっきり確定してない限り自首も出来えない」と書いています。
 その後、弾正台の役人が岩国に出張して取調べに当たるなど、政府の取調べは一段と厳しくなっていっき、明治4年木坂文左衛門は入牢を命じられ糺弾を受けているが、糺弾中病気を患い宿下となりますが病状も悪化し、藩の行った贋金事件の犠牲者として49歳の若さでその生涯を閉じています。
 木坂文左衛門の逮捕に続いて、藩は木坂家やその工場に保存されていた一切の私文書、公文書類、関係品を、川舟数隻に積み込み、舟入り堀から搬出し、証拠の隠滅を図っていますので、可部の鋳物屋の贋金製造も謎を含んだまま終わっています。

木坂文左衛門の墓 (勝円寺境内) 

 


可部と樫の木

 江戸時代後期から幕末、明治にかけて可部の町は郷土の代表的な産業鋳物、酒・醤油の醸造業、山繭から紡がれる可部紬によって栄えてきました

 当時の鋳物産業は、溶鉱炉を甑(こしき)といい、タタラと呼ぶ鞴(ふいご)によって送風し炭を燃やして鉄を溶かした溶鉱を「型ごめ」に流し込んで一つの製品、風呂釜、鍋、釜を生産していました。1週間に一度か二度「吹きの日」と呼んで吹き上げる火が、可部の夜空をまっ赤に燃やしていました

 この可部の鋳物産業を陰で支えていたのが樫の木です。可部周辺で造られる豊富な木炭は、樫の木を材料とした「備長炭」で熱量も高く鉄を溶かす炭として最高に重宝されていました。

 清酒・醤油の醸造業も、豊富な可部の地下水から造られる可部の代表的な産業ですが、この製造を支えてきたのも樫の木です。松、杉の木と違って燃えてなを炭として熱を保つ樫の木が、豆を煎り、もち米を蒸す醸造の過程で重要な燃料でした。醸造屋さんの木小屋には周辺の山から刈り取られてきた樫の木が山高く積み上げられていました。

このようにして可部の産業に重要な役目を果たしてきた樫の木は、可部の産業を支えてくれたものとして町民の間に深く浸透し、可部の町を象徴する木として大事にされてきました。

 可部周辺の山々の懐には天蚕の好む、楢、ぶな・椎、どんぐりの木が繁茂していました。周辺の7〜8ヶ村(鈴張・飯室・勝木・綾ヶ谷・南原・中野・八木など)の農家は農業の閑農期の作業として、楢などの木に自生する天蚕の山まゆを収穫し、夜なべをしながら紡いで糸にしたものを問屋に収め、大事な農業の片手間の副収入を得ていました。紡いだ糸は、可部周辺の織物工場で織られ、染色され、可部紬と云うブランドで京都、大阪で高級反物として重宝されていました。

 

 大正の末期から昭和の初頭までは、お正月を迎える可部の商人の玄関には屋根を超す6mの及ぶ松に合わせて樫の木が添えられていて、街道全体がまるで林のような風景を見ることができました。その名残として現在もお正月に玄関の戸口に付けられる注連飾りには、樫の葉と、松の葉が添えられています

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